12月26日(月) 21:00~ 放送の 『世界ナゼそこに日本人』では
【異国の地で”とんでもない状況”に巻き込まれた日本人】を放送します。
ペルー日本大使公邸人質事件で実際に人質になった日本人が登場します。
在ペルー日本大使公邸人質事件で実際の人質となり死の淵に立ったにも関わらず、今もその地で暮らし続ける日本人男性に密着!驚きのワケとは?
ということで今回は『在ペルー日本大使公邸人質事件』について調べました。
事件の真相は思わぬものでした!!
在ペルー日本大使公邸人質事件の詳細
襲撃・占拠
1996年(平成8年)12月17日
ペルーの首都・リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていました。
現地時間午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入して、制圧・占拠されました。
一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人でした。
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その場にいた青木大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を人質に取り立てこもりました。
その後セルパは、
「逮捕、拘留されているMRTA構成員全員の釈放」
「国外に退避するまでの人質の同行とそれに対するセーフ・コンダクト」
「アルベルト・フジモリ政権による経済政策の全面的転換」
「身代金の支払い」
という4項目の要求を提示しました。
さらに公邸敷地内に対人地雷を設置するなど、軍及び警察による武力解放作戦に備えていたそうです。
当初MRTAは、ペルー政府要人や日本大使館員程度の少数の人質確保を目的としていました。
しかし、600人以上という予想以上の多数の人質を確保してしまったため、MRTAは人質になっていたミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、早期にフジモリ大統領の母・ムツエを含む女性や老人、子供など200人以上の人質を解放しました。
その後も継続的に人質を解放しました。
またアメリカ人の人質も早期解放されたそうですが、
これはアメリカ合衆国連邦政府が自国民救出を理由に特殊部隊を投入する事を、MRTAが恐れたからではないかとの見方もあったそうです。
こんな大きなテロ事件があったんですね!!
今回初めて知りましたが、人質600人はすごい多いですね!!
しかも日本人が狙われたわけですから・・・怖いですね!
事件解決の2つの方法
ペルーのアルベルト・フジモリ大統領とブラディミロ・モンテシノス国家情報局顧問は、事件発生翌日には武力突入を検討していたそうです。
これに対し、事件直後に日本の内閣総理大臣橋本龍太郎の命を受けてペルー入りした外務大臣池田行彦が「平和的解決を優先してほしい」と勧めたことにより、即時の武力突入を断念したそうです。
事件発生から1ヶ月ほど経った1997年(平成9年)1月下旬、事件が膠着状況に陥いりました。
そのことによる国内外からの批判の高まりや、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意を受けて、ペルー警察当局は、武力突入計画の立案を始めました。
警察当局は、ひそかに大使公邸と同じ間取りのセットを造り、特殊部隊が突入するシミュレーションを重ねていたそうです。
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人質生活
事件直後から五月雨式に続いた解放により、人質の数は、1997年(平成9年)の始めには100人、4月の事件解決時には70人程度となりました。
最終的な人質の構成は、数名の閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と、
駐ペルー日本大使館員、松下電器や日産自動車、
三井物産などの日本の大手企業の駐在員などが中心となっていたそうです。
人質たちは暇を潰し、お互いのコミュニケーションを促進するため、積極的に日本語とスペイン語の相互レッスンや、トランプやオセロ、麻雀などのゲームを行い、
その中には人質との間にコミュニケーションを取るようになっていたMRTA構成員が入ることも珍しくなかったそうです。
4か月も一緒にいればちょっとくらい仲良くなってしまいそうですね!
リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、ペルー人の人質やMRTA構成員にも振舞われたとの証言もあるそうです。
トンネル掘削
2月1日に、橋本首相とフジモリ大統領が事件発生後初めてカナダのトロントで会談し、橋本首相は改めて事件の平和的解決と事件解決への全面的支援を訴え、フジモリ大統領もこの訴えに対して一定の理解を示しました。
しかし、1月7日に、ペルー警察当局はフジモリ大統領の発案による公邸周辺の家屋より公邸地下までのトンネル掘削を開始していたそうです。
なおトンネル掘削に伴う騒音を隠すために、大音量で軍歌を流し続けるなどのカモフラージュ作戦を行い、1月27日には発砲の小競り合いも起きたそうです。
直接交渉の開始
2月11日にはペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始され、
ペルー政府側代表のドミンゴ・パレルモ教育相と中立的な立場から交渉をサポートする保証人委員会の委員として、
ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表とフアン・ルイス・シプリアーニ大司教、アントニー・ビンセント駐ペルーカナダ特命全権大使が選ばれ、
寺田輝介駐メキシコ日本特命全権大使も保証人委員会のオブザーバーとして参加しました。
なお、シプリアーニ大司教は犯人と政府との間の交渉役としてだけでなく、人質への医薬品や食料の差入れ役としても活躍しました。
後にペルー政府側の意を汲んで、密かに人質となったペルー海軍のルイス・アレハンドロ・ジャンピエトリ提督(2006年に副大統領に就任)らに対して無線機などを手渡していた他、
差し入れた医療器具やコーヒーポット、さらには聖書などの中にも多数の盗聴器が仕込まれていたことが明らかになったそうです。
テロリストたちは気が付かなかったんでしょうかね?!
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「チャビン・デ・ワンタル作戦」
これらの状況を受けて、事件発生から127日後の4月22日に、ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES/Fuerza de Operaciones Especiales)を中心とした軍・警察の特殊部隊が公邸に突入し、
最後まで拘束されていた72人の人質(日本人の人質は24人)のうち71人を救出しました。
同年2月より掘削を進めていた公邸地下のトンネルを利用したことに特徴があり、作戦名も古代の大規模な地下通路で有名な世界遺産、
チャビン・デ・ワンタル(Chavín de Huántar)に由来するそうです。
作戦の実行に際し、橋本首相への事前通告はなかったとされています。
4月22日午後、MRTAが日課となっていたサッカーを始め、このために1人を除くMRTA構成員全員が1階にいたことが、
密かに持ち込まれた無線機を使用したペルー海軍のジャン・ピエトリ中将からの連絡により判明したそうです。
この連絡を受けて突入作戦の実行が決定され、その連絡を受けたピエトリ中将らは2階にいた人質の多くを急いで奥の部屋に押しとどめたそうです。
人質が2階に集結したことを受けて15時23分に突入作戦は開始されたました。
掘削を進めていた作戦用トンネルの終着地となる1階の床の数箇所が爆破され、その穴と正門から部隊が突入しました。
作戦は成功し、ほとんどの人質は無傷で解放されたが、
フランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木大使ら複数の重軽傷者を出した他、
人質のカルロス・ジュスティ最高裁判事とファン・バレル中佐、ラウル・ヒメネス中尉の特殊部隊隊員2名が死亡しました。
MRTA構成員は14人全員が死亡しました。
事件は解決しましたがその後、意外な事実が判明
あの武力突入に大きな間違いがあった疑いがあり、犯してはならない殺人が、虐殺が行われた疑いがあるという疑いが浮上しました。
続きは次のページで!!
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