山崎晃嗣の生い立ちや日記について
山崎晃嗣は1922年千葉県木更津で5人兄弟の末っ子として誕生します。
山崎の父は医師で木更津市長も務めたことのあるすごい方でした。
母は音楽家、そして山崎の兄3人は後に医師となっているという名家。
山崎は1日に15、6時間という猛勉強の末に、一高から東大法学部に進学しましたが、戦争中は学徒兵として軍隊に入り、幹部候補生を経て、陸軍主計少尉に任命されました。
配属された北海道・旭川の北部第一七八部隊では隊長らが軍事物資を横流しし検挙され、それをかばう形で懲役1年半執行猶予3年の実刑判決を受けています。
この軍隊経験で山崎は人間不信となってしまいました。
そしてその後、東大に復学し、全部の科目で「優」を取ることを課題にしていました。
結局20科目の内17科目で「優」、あとの3科目は「良」でした。
全科目で「優」を取ることができなかったことにショックを受けた山崎は
教授の嗜好や気まぐれで評価される優・良・可の区分に全生活をかけるのが馬鹿らしくなった
と日記に綴っています。
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山崎は1日の行動を勉強や睡眠・性行為に至るまで、細かく分刻みにスケジュールを記録していました。
勉強は「有益時間」として、重要なものから優先順位をつけていたようです。
1日のほとんどは有益時間だったみたいですが、
恋人と遊ぶ時間を「女色時間」、
空想などを「無益時間」
という時間も設けていたようです。
山崎は物資の横流し件で実刑判決を受け、釈放されて家に戻ったときの1946年3月から1年半、日記を書き続けていたようです。
その量は大学ノート3冊分。
日記に書かれていたのは上官への恨みや、投獄時のこと、そして女性関係のことなど・・・。
残された日記の最後には
私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうとする。
と綴られていたそうです。
そして3月24日の日記には
楽しいから生きてゐる
楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである
生命などといふものは要するにつまらないものである
と3年後の自分を暗示するかのような日記も綴られていました。
山崎は最後まで感覚や経験で行動するのではなく、論理に基づいた合理主義を貫いたんでしょう。
せっかくの頭脳を持った方だったのに、もったいない・・・。
まとめ
この光クラブ事件は東大生の黒歴史とも言われているようですね。
天下の東大生がこんな事件を起こすなんて・・・。
当時はかなりの衝撃事件だったのではないでしょうか?
今回の「爆報!THEフライデー」久々にこのような事件系の放送ではないかと思われます。
放送を楽しみにしたいと思います!
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