2016年12月23日(金) 19時00分~ 放送の『爆報!THEフライデー』では
【あの人は今…大追跡&残された妻SP】を放送します。
今回は
昨年10月に亡くなった、元横浜・盛田幸妃残された妻は今、アルバイト生活…さらに、脳腫瘍の再発4回、転移12か所、全身骨折9か所…壮絶な晩年を涙の激白
ということで盛田幸妃さんについて調べました。
盛田幸妃さんとは?
名前:盛田幸妃 (もりたこうき)
生年月日:1969年11月22日
没年月日:2015年10月16日
出身地:北海道
身長:186センチ
体重:89キロ
職業:元プロ野球選手 野球解説者
盛田さんは函館大学付属有斗高校在学中に3回も甲子園に出場したことがあるそうです。
スポンサーリンク
そして、高校3年生の秋ドラフトで
横浜大洋ホエールズ(現DeNA)に1位指名を受けて入団しました。
当時の年俸は420万だったそうです。
1位指名で420万って考えたらすごく安く感じます。
時代もあるんでしょうね~。
1992年にはセリーグ最優秀防御率のタイトルを受賞
1995年に倫子さんと結婚したようです。
倫子さんは日本航空(JAL)の客室乗務員として働いていました。
その3年後の1998年6月に脳腫瘍が見つかり、摘出手術を受けました。
脳腫瘍って怖いですよね。
しかもまだ結婚してたったの3年でこんなに大きな病気が見つかるなんて、
2人とも気が気ではなかったことでしょう。
しかし!!!
翌年1999年8月には2軍で登板できるまで回復しました。
マウンドに戻ってこられるまでの回復ってすごすぎますね!!
そして2002年に現役を引退しました。
その後は解説者として活躍しました。
盛田投手の脳腫瘍からの復活
近鉄バファローズの盛田幸妃が結婚3年目、
突然右足が痙攣する症状を訴え、病院で検査したところ、ゴルフボール大の脳腫瘍が見つかりました。
ゴルフボールって大きすぎですね!!!
そんな大きな腫瘍が頭にあったなんて・・・。
医者からは
「野球ができるようになる確率は3割。最悪、車椅子生活になる可能性がある」
と宣告されました。
復帰のため同年の9月に摘出手術を受けました。
12時間に及ぶ大手術だったそうです。
手術には成功しましたが、試練はここから始まりました。
手術から2日後、盛田幸妃さんは自分の右手が自分の意志で動かせなくなりました。
これは一時的な症状だったのですが、盛田幸妃さんは現実を受け入れることが出来ず、
自暴自棄に陥ったそうです。
そりゃあそうですよね。
動くことが当たり前だった手が動かなくなるなんて、信じたくないですよね。
スポンサーリンク
盛田幸妃さんは手術は失敗したと思い込んでいたそうです。
そのせいで盛田幸妃さんの心は荒んでいきました。
右手は少しずつ動かせるようになるも、麻痺が残っていて、思い通りには動かせませんでした。
もしかしたら、もうボールが投げられないかもしれないと盛田幸妃さんはは絶望の底に叩き落とされた気持ちだったそうです。
倫子さんは夫を支えられるのは自分しかいないと、出来ることは人の手を借りず、積極的に看病を行い、マッサージも率先して続けたそうです。
素敵な奥様ですね。
手術から1週間後に盛田幸妃さんは右手で食事が出来るようになり、前向きな気持ちを徐々に取り戻し、リハビリを開始しました。
1999年4月、手術から7か月後、チームに合流し、体作りを開始しました。
ガンの大手術から7カ月で復帰って凄いです!!
きっとファンの方々も嬉しかったでしょうね。
脅威の回復は妻の献身的な支えがあってこそ実現したもので、手術から1年後、
盛田幸妃さんは投手としてマウンドに帰ってきました。
脳腫瘍を患った近鉄バファローズの盛田投手(当時29歳)はわずか1年で復帰!!
凄すぎですよね・・・
2001年、手術から3年目、34試合に登板し、中継ぎとして本格的に復活しました。
この年、オールスターにも出場しました。
チームはパ・リーグで優勝し、盛田投手はカムバック賞を受賞しました。
2002年2月、倫子さんは盛田投手から、引退を考えていることを伝えられる。
盛田投手は、惜しまれながらユニフォームを脱ぎたかったそうです。
2002年10月6日、盛田幸妃投手は32歳で現役を引退しました。
32歳だとまだまだやれる年齢だと思いますが、惜しまれながら選手生活を終えたんですね。
続きは次のページで!!
コメントを残す