ピーターが自国オーストラリアで英雄になれなかった理由は?!
ピーター・ノーマン選手はオーストラリア最速の短距離走選手で、このときの銀メダリストです。
世界2位ですからすごいことですよね。
オーストラリアの国民も喜んでいるはず...
しかし、ピーター選手は英雄扱いされませんでした。
それは、
ピーター選手がスミス選手とカーロス選手の願いを理解し、
賛同し、ともに戦うことを選んだからです。
ノーマン選手は「ブラックパワー・サリュート」はしなかったものの、
2人がつけているものと同じバッジをつけて壇上に立ちました。
そのバッジとは
「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」と書かれた、
オリンピック選手たちによる平等な権利をもとめる象徴でした。
スミス選手とカーロス選手は表彰台に立つ前、
ピーター選手に「ブラックパワー・サリュート」をすると伝えたそうです。
これにピーター選手も賛同したようです。
ピーター選手は2人の胸に留められたバッジを指差してこう言ったそうです。
「君たちが信じていることを僕も信じている。それ、僕の分もあるかい?そうすれば僕も人権運動を支持していることを証明できる」
白人であるピーター選手が理解し共に戦ってくれるだなんて考えてもみなかったのではないでしょうか。
ピーター選手が味方であると知り、とても心強く思ったことでしょう。
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しかしオリンピックでそういう政治的行為は禁止されています。
事件後3人はIOCにより処分を受け、
さらに、彼らに反対する人々から暴力や迫害をうけたようです。
しかし後にアメリカで人種差別が撤廃され、
虐げられていたスミス選手とカーロス選手は復権しました。
そして一転して人権のために戦った英雄として讃えられたのです。
ピーター選手のオリンピック後
スミス選手とカーロス選手は英雄と讃えられる中、
ピーター選手は死ぬまで苦しみ、悲しい人生をおくりました。
ピーター選手はオーストラリアから無視され、
1972年ミュンヘンオリンピックでも出場資格を得たのに、
なんとオーストラリア代表として出場はさせてもらえませんでした。
スポーツ界から引退後も家族共々社会から疎外され、生涯アルコール中毒と鬱病に苦しみ、
2006年に心臓発作でなくなりました。
彼は死ぬまで独りで戦い抜いたのです。
ノーマン選手の葬儀にはスミス選手とカーロス選手も駆けつけ、彼の棺をかつぎました。
ノーマン選手の死後6年も経った2012年、
オーストラリア政府から正式な謝罪があったそうです。
政府は
「ミュンヘンオリンピックへの出場を認めなかったいう過ちと、彼のしたことを認めるのに時間がかかったこと」
を謝罪したそうです。
ピーター選手は1968年のあの日、200m陸上で20.06秒の記録で2位に輝きました。
この記録は未だにオーストラリア記録として破られていません。
本来なら英雄になるはずが、人権のために立ち上がったため批判され、生前は遂に認められず、2000年オリンピックにも招待されなかったのです。
しかし、世界にはもっと多くのピーター・ノーマンのような人物が必要かもしれません。
あれから約50年、私たちはいまだに平等と人権のために戦っています。
最近のオリンピックでもエチオピアの選手が何かしらのメッセージを送っていましたよね。
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ピーター選手の物語は、白人だろうが黒人だろうが人種に関係なく、平等を実現するのは私たちみんなの戦いなのだと教えてくれました。
オリンピックの場でこのような政治的行動をとることは確かに許されませんが、
このような行動をしなくてもよい世の中になればいいだけですよね。
それが難しいから、オリンピックの場でこういう行為をしなければならなくなってしまっているんですよね。
より良い世の中になるようピーター選手の行動をより多くの方に知ってもらえると幸いです。
まとめ
私は今回初めてこの物語を聞きました。
現在より差別がはっきりとあった時代にこのような勇気ある行動をするとは尊敬します。
今後もこの物語が語り継いでいきたいですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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